・ はじめに

WHATEVER設立から十数年が経ちました。
「可能性は無限大!!」を念頭に、何においても不可能な事はないはずだと考えてきました。
その中で色々な疑問や葛藤が生まれては消化、進歩、また新たな壁にぶつかる、という事を常に繰り返してきました。
ですがいつまでたっても疑問や葛藤がなくなる事はなく、まさに無限ループの輪に入ってしまっているかのようでした。
そんな中、特にこの一年は色々な疑問の答えが解けないが為にニューアイテムも出せずに実質は運営停止していたかのような一年でした。
そんな色々な疑問と向かい合い続け、ようやく一つの事に気づきました。
常に新たなる壁にぶつかるというのは、実は自分自身で常に壁を創りあげていたという事です。
常に新たな壁が生まれるというのは向上心を維持し続けて生きていこうと考えている人間にとっては実はごく当たり前の事であり、死ぬまで逃れられないカルマのような物だという事です。
そう考えると、結局逃れられないカルマなのなら常にポジティブに捉え、壁を越える事を楽しんだ方が良いのではないでしょうか。
最近ではそんな考え方も出来るようになり、シンプルすぎるが為に見え難い色々な物事の本質が昔よりも簡単に見えて来るようにもなりました。
そしてWHATEVERを運営していく上で経験不足がゆえに似て異なる事の細分化が出来ず根本的に勘違いしていた部分がある事や今まで気づいていなかった重要で根源的な事にも色々と気づきました。
例えば、若い頃は不条理な社会に対するアンチテーゼをかかげ、そんな社会に属さない事がパンクだと捉えていました。
ですが現在では「パンク」一つをとっても捉え方が大きく変わりました。
どういう事かというと、「社会に属さない」事と「社会に属せない」事は似て大きく異なるという事です。
単に社会に属せずアンチテーゼをかかげるだけなら自己中心的な社会不適合者にも出来る、「パンク=社会不適合者」であるべきではないはずですし、 そんな物がパンクだとしたら誰もそんな所に信念を持ち込む必要はありません。
「社会の外から不平不満やアンチテーゼをかかげるが自身では何も行動を起こさず他人に期待するだけ=社会不適合者」と「社会の中で不条理に揺らぐ事無くしっかりと立ち、不条理に対する不平不満やアンチテーゼをしっかりとかかげ、自身でその不満を解決する為の現実味のある実行動に移す=パンク」は、若い時には同じ枠組みで捉えてしまう場合もありますが、完全に似て異なる物なのです。
そう、あえて個人的見解を述べるとパンクとはアクティビストであるべきなのです。
それらの考え方を基に、既存の観念を保守しているだけの実は社会不適合者でしかない擬似パンクのたわ言に耳を貸さず、常に中立を意識しながら物事を自分自身で考える事により、しっかりと実行動するべきなのです。
そして自身がしっかりと進歩する事により、今までは社会の中の不条理な要素にアンチテーゼをかかげ、非社会的、反社会的な発想を持ち、それら不条理な要素を持った社会に参加する事を拒むような発想を基に情報発信、運営していくべきだと考えていた事が、実はそれでは「WHATEVERの持つ価値観をたくさんの人に伝える」という肝心の目的が達成できないという最も重要な事に気がつきました。

・ 社会参加

例えば、「社会(国家)」という名の強固で多種多様なシェルターが地球上にいくつかあるとします。
その中にいる人達は、自分達のシェルターの中が絶対安全だと決め付け信じ込み、外の世界や他のシェルターを見てみようともしません。
かたや一部の少数派の人達は、「そんな他人がシステマティックに作った物、絶対に信用しない!!」と、シェルターの造りや構造を知らないにも関わらず否定意見ばかりでシェルターの中に入った事もありません。
そんなある時、ある場所のシェルターの外では大雨が降り、大洪水寸前でシェルター自体が水没しそうになっているとします。
いくら強固なシェルターでも水没してしまっては酸素もいき届かなくなるので、その中の人達にそのシェルターの状況を外から客観的に伝えようとしますが、いくら大声で叫んでも防音の利いたシェルターの中で自分達は絶対安全だと信じている人達に声は届きません。
ではそこで何をしなくてはいけないかというと、まずは自らそのシェルターの中に入り、自分の事を信用してもらい、その上で発言し、そのシェルターが危険にさらされている事を伝え、皆をシェルターの外に連れ出さなくてはならないのではないでしょうか。
かたや違う場所のシェルター付近では隕石が降り注いでいますが、そのシェルターは隕石の衝撃くらいではなんともなく安全だとします。
ですがシェルターの外で、「中には絶対入らない!!」と無意味に意地をはっている人にシェルターの中から「中は安全だから!!」と伝えようとしても声は届きません。

物事の本質は普遍です。

仮に社会参加を拒み自給自足の生活を送るのも個人の自由ですが、それでは同時に社会を進歩させる事も不可能です。
もし真の進歩を望むがゆえに社会のシステムに対して不満がある場合、その社会という蚊帳の外からいくら不満を叫んでも社会参加している人からしてみれば耳を傾けるに値せず、それでは社会のシステム自体はいつまでたっても変わりようもありません。
本当に社会を変えたいのなら、まずはその社会のシステムをしっかりと理解し、仮に一割の不条理が混在していたとしても単にあきらめるのではなく、それも含めての社会だという事をしっかりと理解し社会参加した上での言動でないと誰も興味をもってくれず、結果としても世の中は変わりません。

・今、昔 理解の進歩

ブランド設立当初は「お金儲けだけを目的としている為に起こる弊害を無視した物作り」に対してアンチテーゼを掲げ、考える事の大切さなどを伝える物作りをより多くの人に伝える事がWHATEVERなりの真の創造だと感じて運営してきました。
ですがその結果は全体の中の少数の人達にしか興味を持ってもらえませんでした。
さらにその少数の理解者ほどWHATEVERの本来の理想目的でもある主体性の確立が図れる為、それらの人の中にはWHATEVERの物を購入する必要がなくなる場合も多々あり、必然的にブランドの運営は難しくなるという自己矛盾した要素をどう解決すれば良いかという問題も出てきます。
それらを全て解決するには、まずはより多くの人にWHATEVERの存在を知ってもらい、絶対的な需要を伸ばす事以外にあり得ないのではないでしょうか。
そのより多くの人達に伝えたいという目的を達成するには、より良い方法を模索する必要があるのではないか、興味を持ってくれていない大多数の人にも興味を持ってもらう為に間口を広げる必要があるのではないかと考えるようになりました。
そんな中、例えば服を買うという事にしても、虚飾を飾りたい人、皆と同じ流行に乗る事により安心感を得たい人、見た目やデザインで選ぶ人、着心地や機能性を重視して選ぶ人、価格重視で選ぶ人、メッセージ性や何らかの思い等で選ぶ人、割高でも環境などに対する配慮等の生産過程や背景を基に選ぶ人、などなどがおり、それぞれその中でもさらに多種多様な選び方があると思います。
そのように服を買う理由は十人十色で人それぞれですが、例えば、流行に乗りたいのがきっかけで服に興味を持ち、最初は上面の見た目やデザインばかりを気にしていた人も、何らかのきっかけがあれば他の要素や本質にも興味を持ち、違った選び方を始めるという人もいるでしょうし、またそれらの多様な要素の並立を目指す人も出てくるとも考えられます。
ブランド設立から10年以上経った今、そんな事も理解し常に進歩し続ける事を理想としている現在の立場では、最初に述べたように「単に社会にアンチテーゼを唱えるだけでは何も生み出さず創造とはかけ離れてしまう」という事を理解するようになりました。
分かり易く言うと、虚飾を飾りたいだけで服を選んでいる人に対して「虚飾をかざるな!!」と文句を言った所で、本人がなぜ虚飾を飾る事が良い事ではないのかという本質を理解しない限り何も生まれず、単に気分の悪さや怒りが生まれるだけです。
例えば、子供に対する大事な教育の場で、子供に「何故だめなの?」と聞かれ、いい年をした大人が面倒くさいが為に「だめな物は駄目!!」の一言で話を封殺する事と同じで、それでは何も進歩がないのと同じだと思います。
そんな事は真の創造でもなんでもないはずです。
という事は、本当にやるべき事は今まで虚飾を飾っていた人が外部圧力により虚飾を飾る事を強制的に抑圧されるのではなく、自身が根底的に虚飾を飾る事の無意味さを知り、自然と虚飾を飾る事に興味を持たなくなり、さらに外見とは本当の意味でのアイデンティティを表し得るツールの一つだという事を理解する為の意識変革の「きっかけ」を創る事だと考えるようになりました。
その考えの基、これからは「アンチテーゼをかかげる」事自体を最終目的とするのではなく、アンチテーゼの根源の具体的な解決を目指す事こそが今やるべき事だと考えています。

・ これからの物創り

そうすると必然的にまずはそれらの虚飾を飾る事が目的だった人にも興味を持って貰える物づくりも目指さなくてはいけないのではないでしょうか。
そういった観点からこれまでのメッセージ性に重きを置いた物作りだけではなく、多様な需要に応えた幅広い物作りに変える事により、より多くの人にメッセージを伝えられる可能性が増し、延いてはそれが世間一般的な物作りの質の向上へと繋がっていくのではないかと考え、今までは取り組んでこなかったスタイルの物作りにも今後取り組んでいこうと考えています。
具体的に極端な例を言えば、ブランド設立当初は最も否定していたはずの刹那な流行を意識した若者向けのスタイルの服ですら、「より多くの人に伝える!!」という最終目的の為には現実的に避けて通れないプロセスだとすると、「皆と同じ流行の服を着て皆の輪に入りたい」というレベルのニーズですら「人生経験が乏しい為に純粋で未成熟であるがゆえ」と柔軟にとらえる事も重要なのではないかと考えるようにもなりました。
実例として昔からWHATEVERを支持し続けてくれている一部の人は知っているかと思いますが、過去にスケートボードのプロ活動の一環として「若者向けのファッション雑誌」にコラムのような物を連載していた時期があるのですが、内容自体はこのWHATEVERのサイトにあるような物と同様でまさに「流行」とはかけ離れた内容でした。
ですが、それを読む事によって最初は流行を追う事だけを意識していた人も何らかの意識が変わるきっかけになったのではないかとも思います。
そう考えると、「ニーズに応じる事全てが妥協」で「目的を金銭へとシフトさせた」と決め付けるのはあまりにも独りよがりな想像力の欠けた人の横暴な考え方ではないでしょうか。
目的の本質は先に述べた通りWHATEVERの価値観を知って貰う為の幅を広げるきっかけ作りに過ぎません。
なので、これを期に物事の捉え方をさらに柔軟にしてもらい、今までは「流行に乗っただけのメッセージ性の無い物は着ない!!」と考えていた人も「メッセージ性はなくともビジュアルの持つ意味や価値や表現」を意識したり、もしくはさらに柔軟に、デザイン自体は刹那な流行を意識している服だという事を理解した上で、「自分自身が本当に流行に流されていないからこそ、自分の気に入った物がたまたま流行っていようが流行ってなかろうが関係ない、自分の純粋な感性で気に入ったから着る」といった意識を持ってもらったり、また逆に「見た目さえ良ければメッセージなんて必要ない」と考えていた人も「見た目に華やかさがなくともメッセージの持つ意味や価値や表現」を意識し柔軟に色々な服の着かたに挑戦する事により自身の価値観の幅を広げてもらえると良いのではと考えています。
さらにサイト内の「ITEM AND SHOP」内にある「インチキデザイン」を読んでくれた事のある身近な友人等に意見を聞いた所、「インチキデザイン」の内容をしっかりと理解、把握しているに関わらず、やはり「上面で内容が浅いと分かっていても、同じ価格なら見た目の良い方を選ぶ」と言う人がたくさん居るという現実も知り経験しました。
これもまた主観に過ぎないので「そんなのおかしい!!」と意地をはり押し付ける事の方がおかしいのではないでしょうか。
そんな経験も踏まえ、受け取り手側の意識に強制力を持たせたいと考えていたのではただのエゴになってしまいます。
なのでこれからは「インチキデザイン」にある様な「思い入れも敬意も無いデザイン」ですら、目的が金銭ではなく、「色々な物事を若い人達に伝える為」という悪意の無い物ならこれもまた挑戦していかなくてはならない物創りのあり方の一つなのかも知れません。

・柔軟性・成長

次に余談になりますが、俺自身も服を含めた自身のビジュアルに対しては常に柔軟性を保つ事に意識を置く様に取り組んでいます。
例えば、個人的に青やグリーンの寒色系を好む事が多いのですが、ふと我に返った時などは、そこに収まってしまう自分に危険性を感じ、あえて苦手な黄色や赤の暖色系の要素を組み込む事にも挑戦したりします。
仮にそのトータルバランスが客観的にミスマッチな物だとして、右向け右の主体性のないマニュアル通りの多数派の人達に「変、ダサ〜い、いけてな〜い!!」と言われようが、何を気にする事があるでしょうか。
俺はそんな明らかに思考停止しているが為に成長の止まっているであろう人の後ろ指は無視し、失敗を繰り返すと引き換えに成長していきます。
また、俺は「ダンディ」「クール」「スマート」「シック」といったニュアンスに嫌悪感があり「背伸びをしたいだけの虚飾を飾りたい格好つけ!!」だという偏見に昔からさいなまれているのですが、「所詮は個人の主観に過ぎない!!」ので克服しなくてはいけないとも考え、いつか自身もそういった要素を組み込めるような幅の広い人になれれば良いなと考えています。

・新たな表現方法の模索、変化、進化

話を戻し、そしてそれらの選択肢の全てを考慮した上で選ぶ事が本当に個性のある選択であり、より良い物作りを支えることに繋がるのではないでしょうか。
実際、そんな刹那な流行を意識した物をすぐに本当に作るかどうかは分かりませんが、筋道を通し考えるとそうあるべきだというのがWHATEVERなりの結論です。
最近WHATEVERを知ったばかりの人の中には、「うまい事言っても結局は詭弁に聞こえる、そんな妥協した方法に変える前に、まずは単純にWHATEVERを取り扱ってくれるお店をもっと探して増やせば需要は増えるやないか!!」と誤解する人もいるかも知れないので付け加えておくと、過去数年前には少なくとも今よりは全国的にWHATEVERは流通していました。
ですが、今までの方法では本質的に需要が維持できなかったという結果があり、その根源は何かというと、「同じ情報でも捉える側の能力差により、向かう方向や結果は異なる。」という普遍の事実がある事です。
例えば、一語一句間違いのない完璧な教科書を先天的に能力の違う不特定の人達に与えても、全ての人が完璧に理解する事は不可能だという事は想像がつくかと思います。
では次に考えるべき事は、内容量を減らしたり質を下げて不完全な教科書になってしまったとしても、表現方法を「漫画のように変えてみる」等の変化を持たせた方が、総合的に見ると理解の効率が良い可能性があるならば、そのような表現方法を模索していく方がよいのではないでしょうか?
という事で、これからは情報の量や質のレベルを下げてでも結果が伴うのであれば、そのような意識で物創りを目指さなくてはいけないという事です。
なので今後はWHATEVERの発信する情報の量や質が低下したと感じても、総合的に捉えると本質的レベルが下がるわけでなく確信犯的な行動だと理解してもらえれば幸いです。

・偽りの速度でも

また、今の社会の進歩の速度は一見速く見えていますが、個人的には「創造と破壊」のバランスが悪く、真の適正速度ではないのではないだろうかと感じています。
ですが最初に述べた様に、一部の不条理も含めて「社会」であるという事を理解しなくてはいけない事を前提にした時、その不条理を含めた社会の中で戦わなくてはならないのがルールとなるのなら、今後はその適正ではないと感じている速度にすら合わせた上で行動する事が義務になります。
そうすると先ほど述べた情報の量や質の話と同じく、しっかりと最終目的を優先順位においた上で何が必要かをしっかりと考え行動した時、その偽りの速度にあわせるが為の弊害や皆に理解できない事もたくさん出てくるかもしれませんが、それもここに色々と述べた理由の上での確信的な行為だと理解して貰えると幸いです。


・お金について

ブランド設立当初は「お金」、「お金儲け」、「利益」等に偏見があり、それらの全てが倫理やモラルに反する可能性が高いと勘違いをしていましたが、現在は本質を理解するようになり、「お金」、「お金儲け」、「利益」等の本質自体に善悪は存在するわけもなく、正確に言うと「お金の使い方」や「お金儲けのプロセス」や「利益を得る為の方法」等に倫理やモラルが存在しうるのだと理解するようになりました。
さらに言うと、現時点での理解としては、「使い方」、「プロセス」、「得る為の方法」等がちゃんと理念に沿っていれば、努力量に順じてお金をちゃんと得るべきであり、もし人並み以上に努力しているに関わらず人並み以下にしかお金を得る事が出来ないというのでは、それこそ世の中が成り立たなくなりおかしくなってしまうのではないでしょうか。
例えば、WHATEVERがある意味理想としていた企業「THE BODY SHOP」の創業者のアニータ・ロディックは、理念に沿った経営により努力量に準じ得たお金によってかなりの社会貢献を成した事などを考えると、「お金持ちが悪である」というのは妄想以外の何者でもないという事に今は気づきました。
例えば、自分の努力量に準じてお金持ちになった会社の社長が10万円もする料理を毎日食べていたとします。
かたや努力をしないが為にお金が無く、毎日100円の料理しか食べる事の出来ない人がいたとします。
ですが、10万円の料理を毎日食べている社長は一度もご飯を無駄に残した事は無く、かたや毎日100円の料理しか食べていない努力の出来ない人は気分次第で無駄にご飯を残し平気で捨てたりしているとします。
本当の意味で無駄な贅沢をしているのはどちらの人でしょうか。
今ではそんな物の見方がある事も知りました。

・「真の価値≠表示価格」

ですが、あの当時はお金儲けしか頭にない大人は全員が敵だと考え大嫌いだったので「お金の無いであろう若い人にはとりあえず安い方が良い」とだけ考え、採算を無視し赤字になるのを分かった上で創ってきた物も多くありました。
が「真の適正価格」を目指す中で見えてきた事の一つに「必要以上に安くしすぎてしまう事により、その物が持つ真の価値が薄らいでしまう事もある」という現実も経験してきました。
「真の価値」は価格が決めるわけでもメディア等の評価が決めるのでもなく、真の目利き力を自身で養い自身が感じる価値こそが真の価値であるべきだという事です。
今後はそれらを踏まえた上で、アイテムごとにデザイン労力やコストのかけ方も随時変えていく事により真の適正価格を目指そうと考えています。
なので、物によっては価格が変動したり、価格は今までと同じでもデザインなどに費やす労力はぐっと少なくなるアイテムも出てくると思います。
けど、それは今までのWHATEVERの創る物が一般的な利益率をあまりにも無視し赤字覚悟で限度を超え手間隙をかけ過ぎた物に対する労力を減らし適正化を目指すという意味です。
早い話、\1000使って作った物を\500で売り続けていたらどうなるのかと同じで、今までは、「引き算」しか使わない運営になっていた所を、単に「足し算」に切り替えるのではなく、「足し算・引き算・答え」をバランス良く意識した運営を目指そうという事です。
なので、物によっては数字だけで捉えると価格が上がるかもしれませんが、「その物の真の価値」が薄らいでしまわない範囲で、あまりお金がない若い人でも購入し易い価格を目指す事は今までどおり同じですので誤解のないようにお願いします。
その上で、もしかすると数十年後にWHATEVERが億万長者になっていたとしても、それは何ら理念に反した上ではないという事を先に言っておきます。

・本末転倒

また今までは日本を含めた先進国の飽食社会に伴う環境破壊等にも疑問を持ってはいる物の、本質をふまえた回答も出せない中、不必要なデザインの乱発やアイテムの過剰供給は不必要な需要の底上げに繋がり良くないと考え無責任な事は出来ないと思い、常に必要最低限の生活費ぎりぎりまでニューアイテムのリリーススパンも少なくなるようにしてきました。
また例えば、今のエコブームに便乗しエコを打ち出してはいる物の、その素材の生産された経緯も調べずに安易にブームに便乗し、実はそのエコアイテム自体を生産するが為にエネルギーや環境に良くないという本末転倒した馬鹿げた事を平気でやっている無責任な会社も多いらしく、そういう無責任な会社ほど利益を増やしているという現実をふまえつつもWHATEVERではそんな事は絶対出来ないと考えてきました。
例えば、WHATEVERではD.I.Y.プリントのTシャツのインクなども今の「エコブーム」の何年も前から作業効率が悪くとも環境に負担の少ないインクを出来る範囲で使用するように意識を置き続けてきましたし、またそれらの事を声を大にして表明したりもしてきませんでした。
が、逆に安易にブームに乗っている会社ほど声を大に「エコ」を叫び、それらを売名行為の手段にしている場合もあり、「エコ」を売り文句にしているに関わらず、作業性を優先した環境に負担の高い方法で物を作り利益をあげている場合も多いのではないでしょうか。
ですが深く物を考えない消費者にはそんな会社ほど高い評価を受けていたりするというのが世の現実です。
勿論、最初は深く考えずとも悪意もないが為に安易で純粋に良い事だと考えブームにのっただけであったとしても、そこからちゃんと意識改革につながり本当の良い行いに変われば価値はあると思います。
ですが、世の本質を踏まえた時に簡単に想像できてしまうのは、そんな安易な人たちはブームが去り利益に繋がらないとなると「従業員を食べさせなくてはならないから仕方がない!!」等と言った安易な言い訳をして何のためらいも努力もなく会社の方向性をいともたやすくかえてしまう事が先読みできてしまいます。
俺はノストラダムスでもなければ予知能力があるわけでもないに関わらず。
しかし、そんなデタラメな会社の運営方針に口出しは出来ません。
そんなこんなでこの約一年はここに書ききれない数多くの不条理に対する葛藤が消化できない状況下、考えれば考えるほど問題は難しくなっていくばかりで「あれも駄目、これも駄目!!」と八方ふさがりのような感じになりニューアイテムも出せずになってしまい実質活動停止のような状態になってしまっていました。

・理想だけでは世の中は変わらない

ですが、ここでも一つの新たな考え方が生まれました。
仮に、WHATEVERが素材の生産された経緯を調べきれないからといってニューアイテムを出す事に躊躇していたとします。
ですがその間にも、無責任な会社が無責任な商品で利益を増やしていっているとします。
でもWHATEVERにその無責任な会社の方針に口を挟む権限はありません。
これではいつまで経っても進歩がないどころか、その無責任な会社はその無責任な商品の利益によって更に力をつけ、さらに無責任な商品の供給量をどんどん増やしていってしまいます。
最初に述べたように不条理が混在している事が前提条件になっているからといってその条件を否定していても前には進まず、最終目的の為に社会参加するという条件を飲み込んだのなら、その条件に従った中でいかにその不条理に立ち向かうかを考えた方が生産的なはずです。
それならその無責任な会社と同条件下、素材の生産された経緯を調べきれずに実は環境に少なからず負担があったとしても、WHATEVERが少しでもその無責任な会社以上に責任を意識したアイテムを出し、その利益によって力をつけ、その無責任な会社以上の供給をWHATEVERでまかなう事を目指した方が良いのではないでしょうか。
そういう考えの基、今後は環境に対する負担が今までよりも高くなっても作業性の良いインクを使用する事もあるかもしれませんし、その他、一般的には良くないといわれる物事でも固定観念や常識に流されず自分自身でちゃんとしっかり判断した上で、あえて選択する事もあるかもしれません。
物理的条件に限界のある中で取捨選択しなくてはいけない事に直面した時に、最低限度の犠牲の基にしか結果が出せないという事が世の中に存在する事は、世間知らずの偽善者やよほどの子供でない限り皆知っているはずです。
またそれを理解出来ない子供や、結果を出せない口だけの偽善者のたわ言に付き合っていては何時までたっても世の中は変わらないでしょう。
100点満点の理想論で世の中が変わるのではなく、1点でも2点でも、もしくは場合によっては一時的にマイナス点をとってでも、現実としての実行動でしか世の中は変わりません。
マイナス100点の会社に打ち勝つためにプラス100点満点の理想論で挑んでも結果が出せなければ意味はなく、それなら現実的にはマイナス90点でも良いので結果をだす事により総合的に考えればプラス10点になるのではないでしょうか。
そのように、その良くない会社よりは少しでも良くなる状況を目指し打ち勝たなくてはならないと考えています。
かといって子供でも思いつくレベルで単純に理想を切り捨て妥協する、という創造力に欠けた方向に向かうのでは意味はなく、今までどおり理想論の可能性の模索を維持しつつも、結果の伴わない理想論だけの運営ではなく、現実味も意識した運営を目指す事により大きく進歩しなければならないと考えています。
そんな中、「WHATEVERがマイナス90点の物を作っていた!!」と後ろ指を差されたからといって、その途中過程や本質的な理由を全て常に皆に逐一報告していたのでは必要以上の労力(お金、時間、思考のエネルギー、等も含めた全て)がかかってしまい(実質、この十数年はそこに必要以上の労力をかけすぎていた為に不健全な運営になっていたという事実も経験したからこそ)、それこそWHATEVERの価値観とは異なる会社に打ち勝つ為の労力を算出する事が出来なくなってしまいます。
なので、これからは今までの様に何でもかんでも説明するのではなく、本当に重要だと判断した物事のみを皆の想像力も含めて期待し説明すると言うスタンスに変えていきます。

・真の進歩への挑戦

そうするともしかするとWHATEVERは妥協して良くない方向に変わってしまったのではと誤解を受ける事もあるかもしれません。
ですが実はそれは「真の進歩への挑戦」そのものでしかありません。
そこで誤解を生まない為にも皆に理解してもらいたいのは「妥協する事」と「手段として割り切る事」も似て異なる事だという事です。
その「妥協」と「手段としての割り切り」の狭間は微妙で見極める事が難しい場合が多いですが、個人的な判断基準としては「自身の持ちえる能力で物理的に消化できる可能性を秘めている物事を挑戦もせずに諦めるのは妥協」で「第三者に権限がある為に自身の範疇では物理的に消化できない可能性が高い物事を割り切りる事は手段」だと捉えています。
例を出すと、算数のテストで自分自身の努力によって100点を取る事の出来る可能性は自分次第で「無限大」で、結果についても自己責任です。
ですが、努力の基準が自身とは全く異なる第三者に算数を教えてあげて100点を取らせる事が出来るかどうかの可能性は「未知数」になってしまい、結果の責任は負えません。
そんな根拠の無い運任せのギャンブルと同じレベルでしかない「未知数」に費やすエネルギーを無駄だと合理的に判断し切り捨て、自身の自己責任において結果も伴う事のみに専念する事が「妥協」ではなく「手段としての割り切り」だと理解するのはそんなに難しい事ではないはずです。
しかし以前は「無限大の可能性」と「未知数の可能性」との差異が分からず何でもかんでも「可能性」を念頭に第三者に権限がある事柄ですら自身の努力で消化しようと考えていました。
勿論、「未知数≠0」なので、勝つ根拠のないギャンブルでも運まかせで勝つ場合もあります。
なので場合によっては第三者にたずさわる事柄でも、運がよければ消化出来る事も存在します。
ですが、消化出来る可能性の高い事柄の優先順位を上げて行動する事が文化や創造につながるという事を前提にした時、他力本願な運任せとも言いかえる事のできる「未知数」は否定し排除するように努めるべきではないでしょうか。
エネルギーには限りがある中、努力の基準が未知数の第三者の為に非効率的なエネルギーを使うなら、次は自身が国語のテストでも100点を取る為の努力のエネルギーを使った方が正しい選択なのではないでしょうか。
先ほどの「運営方針がデタラメな会社」を例に出すと、その会社の運営方針を第三者の俺がかえる事が出来る可能性は「未知数」、自身の運営するWHATEVERをより良く出来る可能性は「無限大」。
なので、限られた一定のエネルギーをどこに費やすかを判断する時に、デタラメな会社の運営方針を変える事にエネルギーを使う暇があるならWHATEVERをより良くする為のエネルギーに使った方が合理的である、と言う事です。
ですが以前はそんな見極めが出来なかった上、且つ絶対に妥協をしないが為に十数年の遠回りをしてきました。
なので、俺と同じく妥協を出来ないが為に遠回りしてしまっている人が少しでも「妥協と割り切り」の違いをこの文章により理解し、合理的な進歩に繋がる為のヒントにして貰えれば、その瞬間に俺の遠回りが意味と価値のある真の「文化」となるのではないでしょうか。
ここまで読んでも理解できず納得いかない人がいればサイト内全てに責任を持ち熟読して下さい。
おおよそ全ての筋道が通っているようになっているはずです。
ですが、このWHATEVERの十数年の成長のプロセス(誤解、勘違い、失敗、も含め)を知ってもらう事により皆に役立つ可能性のあるコンテンツ、または役立つかどうかをすぐに判断出来ないコンテンツ、等の過去の物はあえて削除したり書き換えたりせずに残すつもりなので、その理由を基に筋道が通らなくなってしまう可能性もありますが、それは例外と判断して下さい。
例えば、「ABOUT US」内に記載されている一部のアンチテーゼとこの文章内の見解は場合により、180度違っていたりする場合もあり、それらを相対比較してもらう事によりWHATEVERの成長の過程を知る事が皆の合理的進歩に繋がる部分もあるのではないでしょうか。
それら例外を除き、それでもこちらのミスで理解出来ない部分やつじつまが合わない場合は筋道の通った質問にのみちゃんと責任を持ちお答えしますのでご連絡下さい。
と言う事で、本当の意味でWHATEVERを支持してくれている人を切り捨ててまで前に進もう等と考えているわけもありません。
(全て読むのは面倒だという人は特に「ITEM AND SHOP」内の“考戦”“WAVE”等の多角的な視野を理解してもらえれば良いのではないでしょうか。)

・「ポジティブと偽善は紙一重」を忘れない為のアンチテーゼ

さらに、今回は今までの文章と違いあえてポジティブな物言いをしてきましたが、「ポジティブ」である事と「偽善」は紙一重である事を忘れてはいけない事も含め付け加えます。
WHATEVERが仮に何かを切り捨ててまで前に進むとしても、それは冒頭でも述べた単に自分は何もせず筋道も通せず文句だけたれている社会不適合者の擬似パンクの後ろ指など眼中にないだけの事なので本質は今までと何ら変わりません。
というか何をどう説明した所で、自身が思考停止していまっている事自体に疑いも持たず、真のアクティビストであった先人達が創り上げた過去の観念形態にあこがれすがってしか生きていけず、二言目には「CRASSはどう言ってた!!」とか「ジェロ・ビアフラはどうだった!!」とか、そんな事いまだに言ってる奴と討論するような無駄な時間は俺にはありません。
俺はそれら先人が戦い創りあげてきた良い部分は参考にしますし大いなる敬意も持っています。
ですが、それ以外の過去の事は俺には何の興味も関係も無い事です。
俺は声を大にして言います「君ら今、2008年やで!!」と。
そして自身こそ真のパンクだと語りたいなら少しでも早く気づくべきだと思います。
先人の努力による創造物はそれをさらに超える努力により破壊し再構築してこそ最大なる敬意の表明だという事を。
そもそも口上での敬意など全くもって無意味でしかなく、社会不適合者にとっては労せず無尽蔵に生み出せる迎合の為の常套手段でしかありません。
真に敬意があるなら語らずとも実行動で示せばよいだけです。
ですが現実はいまだに過去の事を引き合いに出すしか脳がないに関わらず、自身こそリアルパンクだと思い込んでいる単なる擬似パンクも多く、そんな奴の揚げ足(にすらなっていない自己完結した低レベルな詭弁)に通る筋道なんてはじめから存在しないです。
(たまたま個人的にパンクという言葉を使いましたが、スケートボーダー、ミュージシャン、デザイナー、作家、学者、革命家、などなどジャンルは関係なく、文化を創りあげてきた真のパイオニアであったアクティビストの人達全て、言いたい事の本質は同じです)

なので、俺達のジェネレーションが創ってきた事を壊し再構築し更なるレベルへと進化させてくれる人達が早く現れる事を期待します。
と言った所で、恐らく俺達も死ぬまで進み続けているので、その平行線を埋めるのはそんなに簡単ではないですが(笑)。

・最後に

話をまとめると、これからは「社会参加を目指しつつも妥協はしない!!」といった所でしょうか。
WHATEVERは十数年かけてようやくスタート地点に立つのかなという気もしています。
これから、どんな途中経過や、どんなゴールがあるかは誰にも分かりません。
もし自身の人生が終わった時に他人から見て中途半端に見えたりハッピーエンドでなかったとしても所詮は他人の見解に過ぎず俺には何の関係もない事ですし、人生ゲームに参加する楽しみすら放棄して傍観者でいる事の方が俺には理解できません。
結果はどうあれ人生ゲームは参加してこそ楽しいのではないでしょうか。

という事でいつもの如く面倒くさい長文になってしまいましたが、もしかするとこの様な長文はこれが最後になるかもしれないし、ならないかもしれません。
ですが、とにかく「WHATEVERは前に進みます」という事です。
これからもみんな応援宜しく!!

WHATEVER代表 中村泰一郎




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