昔からWHATEVERを知っている人はよく耳にしていると思いますが、よく俺は「主観的価値観の違いは相互理解する努力をすべきである」と言う事を口にします。
どういう事かと言うと、世の中には人の数だけ考え方の違いがあり、そんな中自分の考え方が絶対に正しいといった事を安易に口にするのは、普通に考えて、自己中心的な人の発想だと思っています。
よく例として出すのは、「チョコレートとガムと飴」や「肉と野菜と魚」又、「ヒップホップとパンクとクラシック」等があって、それぞれその中でどれが一番良いかという事で言い争っている人がいるとして、結論から言うと人それぞれ受けた教育の違いや、育った環境の違い、その他様々な要素により感じ方の違いがあるので、「価値観の違いは絶対的なものなので優劣は無い」という答えが出るはずが、子供の時などは人生経験の不足からそういう事が理解できなかったり、また例えば「ヒップホップとパンクとクラシック」全部を聞いた事がある上で個人的にどれが好きだというのは価値観ですが、環境や状況により仮に「パンク」しか聞いた事ないに関わらず「パンク」が一番だというのは、単に柔軟性の無さやキャパシティの狭さにすぎず、信念や価値観とは程遠い物で、ただの思い込みでしかなく、それらを理解出来ない人に限って他人の価値観を理解出来なかったりします。
また仮にその「パンク」の中でもなんと言うバンドが好きかということを言い争っているとして、同等の情報量をもった人同士で意見が分かれるのは主観や価値観ですが、根本的に情報量の違いがある中で情報量が少ない側の人が情報量の多い側の意見を否定したりするのも同じく思い込みと信念や価値観とをはき違えてしまっています。
ですが大人になると共に色々な事を学習する事により、「主観的価値観の違いは絶対的なもの」だと言う事を理解するのが本来は普通です。
さて、本題はここからです。
どういう事かと言うと、他人に対して相互理解やリスペクトがあると言う事を、アピールしたいのか面倒くさいのかは知りませんが、何か事あるたびに「人それぞれやから」と安易に言うことによって、大人になれたつもりの人が凄く多いのではないでしょうか?
確かに本質的相互理解を図る意思はあっても、情報と言うのは無限にある為に、他人の持っている価値観を全て理解しようとしても、物理的に無理という事は容易に理解できますが、今の世の中を見ていると明らかに価値観や主観の違いとは程遠いただ単なる「思い込み」までをも、「人それぞれ」で結論づけてしまうエセくさい大人になったつもりの人ばかりではないでしょうか?
どういう事かと言うと、例えば体質に異常がある等の例外を除いた時、「砂利や泥水等」を食べておいしいという子供がいたとして、明らかにそれは科学や生理学的に考えてもおいしいわけなく、ただ単に天邪鬼な事をして人の気を引こうとしていると言う事がおよそわかります(とはいえ俺も子供の時、絵の具を食べておいしいと思った事もあるので、それこそ人それぞれで例外はあるでしょうが、精神が幼稚であるほど思い込みは激しくなる為、今考えればおそらく何らかの情報に基づく思い込みだったのだと思う)。
それは明らかに価値観と呼ぶには程遠く、ただの思い込みにすぎず、それらを安易に価値観で片付けてしまう発想が、昨今のテロや戦争に繋がっているのは明白だと俺は思っています。
世の中何かと何かが対立する時の大半は、真の価値観と呼ぶにはあまりにも程とおい、科学や論理を無視した個人のエゴレベルの自分に都合の良い感情論を信念や価値観だと思い込んでいる人達の仕業。
戦争やテロ行為なんてまさにそれらの代名詞で、本当の価値観というのなら、対立する宗教の教えや考え方と、自分の信仰する宗教とを全て化学的根拠に基づく論的解釈で理解した上で、エゴレベルの自分に都合よい感情論ではなく、客観的な視野で物事を認識・理解した上でお互いの主義主張を意見交換してこそ本当の意味のリスペクトや価値観の違いを理解でき、争いごとは限りなく起こりにくくなるはずではないでしょうか?
そういう事からもおよそ推論ですが、自分の信仰している宗教や主義主張が一番正しいと思っている人の大半は、他の人や宗教の教えを認識する為の情報収集をする努力を怠っているに関わらず、ただの「思い込み」を「価値観や信念」と同等のものと勘違いして捉えている人達であろう場合が凄く多いのではないでしょうか。
またそれ以前の段階で、教え自体が非科学的で論的根拠の伴わない物や、詭弁レベルでしか通用しない事ばかりだという事実も宗教と呼ばれるものには多々ありますし、だからこそ対立が起きる場合が多いのだと思います。
例えば「50+50=100」だと捉えている人、「20+80=100」だと捉えている人、また「80+20=100」だと捉えている人達がいるとして、その場合だと全員答えは一致していて事実は事実でしかなく、どの経緯を通るかは確かに価値観の違いですが、答えとしての真実は一つです。
ですが今の世の中の争いごとの根源は「50+40=100と言うのが真実で私の信念であり価値観だ」という人と「いやいや何をおっしゃる60+50=100こそが本当の真実であり私はそれを信じて生きてきた」と言う人が、死ぬまで永遠に平行線で言い争っている様なもので、また時には仮に、結論として「100」という答えを導くにあたり「1+1+1+1+1+1+1++1+1+1+1+1+1+1+・・・・・・=100」、として事実を導く人と、その方法論を知った上でさらに努力により合理的方法論を習得した人が「10×10=100」とさらに効率的に答えを出したとして、普通に考えれば同じ「100」と言う事実を見出すなら、より効率の高い方法の方が優劣として優れているという事実があるに関わらず、感情に負け、人生観を否定されたが如く新しいものを認めない保守的な人は「結論が正しいねんから、どっちでもいいやんか、自分の価値観を押し付けんな!!」という逆切れを起こしたりします。
そこに物事を認識したり学習する事に対する努力量の差があるに関わらず・・・
これまた同じく努力不足により科学や論理的思考と言う発想が欠如した人のわがままでしかなく、まさに感情に負けただけの自分に都合のいい思い込みと本当の「価値観や信念」とをはき違えてしまっている。
ここまで読むと分かると思いますが、まさにこんなレベルの低い争いが戦争やテロの根源的発想であったりするから世の中たちが悪い。
勿論上記の様な発想を明確に持ち、全てを理解した上で戦争やテロがあっても仕方が無いし、絶対に何をしようが戦争やテロは無くならない、と考えている人がいるなら、それは本当の意味のその人の選択肢かもしれないので、それこそ一つの価値観として認めざるを得ない可能性は高いと思いますが、本当の意味の価値観や主観性の違い、また化学や論理を理解する努力をせず安易に「人それぞれ」とか言う人の大多数にかぎって、安易に反戦を口にし、安易に感情論で口の上だけで「平和」とか「やさしさ」とか「思いやり」と言った抽象的な言葉でなんとかなると思い込んでいて、それなりの行動しかせず物事の本質を理解する努力もしていない人なのではないでしょうか?
歴史の事実をふり返った時に、そんな他力本願な事で世の中が変わるわけも無い事がすでに立証されているに関わらず・・・
それすら人それぞれで自由だという事も理解しなくてはいけないのかも知れませんが、そんな自己矛盾した事を主観性や価値観だと思い込んでいる人に、否定論を述べる事も俺の価値観だと思っています。
この辺まで読むと人によっては「何で常に科学や論理を基準に話してんねん、それこそ筆者の価値観の押し付けやないか!!」という人も出てくるかもしれませんが、科学や論理と言う言葉の上の定義に振り回されずに、中立的に物を考えた時、真実は真実でしかなく物事を理解するための努力を怠った人の思い込みや、感情論に左右された非事実とは根本的に性質が違う物なので、比較対象になっていません。
どういう事かと言うと、全ての事は物理的根拠を基にした論的概念に基づいて全て成り立っているという絶対的な事実は不変の物で、それを概念的に自己認知できているか、いないかという問題でしかありません。
分かりにくいと思うのでさらに説明すると、前回も例に出した様に、科学や論理の認知に対する努力を怠る人というのは、自身の人生経験の中で得た実体験による経験値や民意レベルの社会常識は正しい情報で、科学的として捉え認知しますが、自分の実体験していない事や民意や社会常識のレベルで非常識とされている事等は全て非科学的な事だと思い込んでしまいます。
早い話、「現時点の物理学で立証されていない事=非科学的な事」と「現時点の科学で立証されていないだけで将来的にいつか立証されるであろう物理的真実」とを混同してしまっています。
例を出すときりがありませんが例えば、宇宙は地球を中心に回っていると思われていた「天動説」が絶対だった時代には、事実とは異質の民意レベルの常識を殆どの人は鵜呑みにしてしまい、真実である「地動説」を唱えた人は非科学的だと思われ理解されないどころか、場合によっては逆に真実を言っているに関わらず嘘つき扱いや馬鹿扱いをされていたのではないでしょうか。
よっぽど想像力の乏しい人等は「そんなん、ごくまれな一例や!!」というかもしれませんが、それこそ全く逆で少し想像力を働かせれば理解できますが、人類の歴史の中で進歩と言う概念は科学的立証により図られて来たと言う事実があり、化学的証明が図られない限りは例え事実であっても殆ど全てが非常識だと思われていたはずで、だからこそ努力により実験等を積み重ね科学的に立証する事により始めて社会常識として認知されたはずです。
だって普通に考えて、始めからみんなが納得している事を証明する為に、有り得ないくらいの労力を費やし、何百回もの実験やデータ収集をする事ほど無駄な作業をするなんてあり得ないことは子供でも理解できる。
そういう事からも科学、物理、論理などの認知、また想像力等というのは、一般的に言われる良い世の中を作るためには必要不可欠だという事を、いい加減みんなが理解しないと一向に世の中は変わらない。
結論を言うと戦争やテロ等は、「信念や価値観」と、「物理に基づいた真実」等とは程遠い感情論や風習、習慣、民意レベルの「思い込み」との区別がついていない物理や化学の本質を理解する努力を怠った自分に都合の良い感情論に支配された人達が起こしている場合が多く、また自分自身から争いごとはおこさないにしても、論理的に物事を認知できない(というかほとんどの人は出来ないのではなく、それまでの自分の人生観を否定される事に繋がると思い込み、改善しようとしない場合が大半だと思うが)と言う人は、単に社会レベルの民意に自分自身が迎合している事に気づいていないだけで、なぜそんな事が言えるかと言うと、「1+1=2」等のシンプルで精神も含めた全ての実在の根源ともいえる発想を元にして何百年と積み重ねられた科学や物理、数学等を学校等で勉強して最低限の論的理解は可能である事で証明されると思います。
これまた前回同様、物理や数学を学ぶという事の本質を理解していない教師が 学校教育の中で物理や数学を教えている、という馬鹿げた現状が問題なのではないのでしょうか(誤解の無いよう言いますが、教師自体を否定しているのではなく、そういう方針を教師に押し付けている“国やシステム”=“民意”=“自分達自身の責任”だと考えていて、言い方を変えれば、例えば「民意の代表者でしかない総理大臣の決断=自分達の決断」と言う事すら理解できず、自分自身何もしないくせに、個人的に都合の悪い事があると他力本願に代表者に責任転嫁しようとする無責任さと同じで、不満があるなら自分自身で実質行動すべき)。
本来学問等の本質は社会生活等の実質生活をより建設的かつ合理的にする為のもの等で、それぞれの情報をいかに有用的かつ効率的に取捨選択したり、想像力を加える事により新たなる発展に繋げる事が重要なのに、今の学校教育では無意味に情報量を増やし丸暗記する事が優先順位に置かれているというまるで「雑学博士製造機」の様な無意味なものになってしまっている場合が多いのではないでしょうか?
いまやインターネット等の無限の情報を効率的かつ合理的に収集できる道具が開発されているに関わらず、いまだに個人レベルでは不必要で無意味な情報まで強制的に脳内にインプットさせて、より膨大な情報をインプット出来る人間が能力あるなんていう判断基準はマジでナンセンス、一体全体、偉い人達はみんなに何をどうさせたいのか理解に苦しみます。
まさに国家レベルで「D.I.Y.」の発想の欠如により情報を情報レベルで終わらせてしまい、有用的に活用するという情報の本質を理解していないだけにすぎないとしか解釈のしようがありません。
それらの事が理解できれば、すべての相互理解を求めるには、世の中のありとあらゆる全ての事柄は物理法則にしたがっているという事をみんなが理解しない限り、一般通念上に言われる良い世の中に変えるには難しいという事も理解出きるはずではないでしょうか。
それと勘違いしないで欲しいのはこれらのことは「夢」や「創造力」等を無くす事とは全く異質の物で、例えば俺は個人的に宇宙人とかUFOは存在するのではないかと想像しているし、場合によっては霊的なものも実在するかもと思っています。
詳しい事は知りませんが、ただ現在の科学では物理的にあり得ないと思われているかも知れませんが先ほど言ったように、「今の物理学で立証出来ない事と、事実・真実は別の物」だからです。
たまに見かけるUFOやその他、オカルト的な事を肯定派と否定派に分かれて論じる番組も根本をはき違えたナンセンスな物が多いと思います。
物理や化学をまともな現代人として認識した上で「事実として存在するかしないかは、現時点ではわからない」というのが絶対的真実で答えなはずで、「現在解明されている科学の範囲での物理学的見地では不可能なはずだ」しかし「夢や希望」という主観的論点を含め「存在して欲しい・欲しくない」を論じるなら分かるが、およそそれ以前の論外な感情論のみで「存在する・しない」を争っているような番組は、本当にどうしようもないと思う。
という事で、物事の本質を認知し、事実を事実とすることと、夢が無いのとは全然別の物、これを理解出来ない人達が争いの原因に加担しているといっても過言では無いのではないでしょうか?
そういう事も含め最後に付け加えますが、これらの文章が堅苦しく面白みの無いものと感じる人が多いだろうと言う事は客観的に理解しています。
書いている自分自身なんの物質的メリットもないし、はっきり言って面倒くさくてしんどい作業です。
こんな事書くと「じゃあ、何の為にこんな事書いてるんやろう?」、「しんどいんやったら、書かんかったらええやん!!」と思うかもしれませんが、逆に問いかけます、先ほども述べた様に「ピース」って何万回叫べば世の中変わるのでしょうか?
真実としての答えは、「何万回叫んでも世の中は、変わりません!!」
そんな安易で他力本願な発想で世の中変わるくらいなら、とっくに変わっているはずで、想像(イマジン)すればわかるはずです。
だからこそ、そんな世の中の生産性の無い風潮に少しでも変化をもたらす為には、答えは物理をしっかりと認識した上での論理的発想に基づく方法論の構築が重要で、感情論(勿論、音楽や絵画などなどの感覚に依存する要素を持った芸術性のある物が起爆剤や点火プラグの様な役割を果たす事は理解しているが、そんな目立つヒーロー性のある所にしか目が行っていない人が多く、起爆剤だけでは不発弾に過ぎない物になってしまう事を理解し、感情と論理のバランスが必要だという事を理解する努力が必要なのではないでしょうか?)等だけでは何も変わらないという事をいい加減理解しなくては世の中変わらないのではないでしょうか?

「平和」というのも所詮、民意の作り上げた倫理観に押し付けられている部分が現状では大半だと言う事も理解していますが、みんなはこれを読んでどう思うでしょうか?


中村泰一郎