という事で第一回は、「DESIGN関連」の概要説明の後半部分に対する補足説明的な感じで進めたいと思います。
昔からWHATEVERを知っている人は気づいているかもしれませんが、筆者はよく論的に「論理なんて無視しろ!!」という自己矛盾した様な事を言います。ちなみになぜこんな事を言うかというと、「はじめに」でも言っていたように、論理は想像力との融合によって初めていかされる物で理論武装だけではすでに過去の歴史から得た事実を整理整頓しているだけに過ぎず、まさに今の学校教育の制度の中で無意味に歴史年表を丸暗記しているだけの雑学としてしか利用価値の無い歴史の授業と同じ。
本来、歴史を学校教育の中で義務として勉強する意味、本質とは、歴史の事実にもとずき立証されている科学や論理的見地から、様々な事を合理的判断する事により同じ失敗を極力減らし、さらに想像力を加える事により、未来を予測したり真の進歩や発展を目指す為の教育なのに、教師自体がその本質を理解していなかったりするので、そんな教育を受けた子供も年表丸暗記出来れば優れていることの証明だと思い込まされている。
すなわち理論武装しか出来ないレベルでもそれが賢い事と履き違えている人間を大量生産している。
そんなレベルの低い想像力の欠けた理論武装だけの実質行動の伴わない口だけの奴なんて存在価値も意義もないが如く、また逆に想像力も論理性を伴う事により始めて具現化、実体化できる物であり、その想像した事を実体化する為には、どうしたら良いのかという事を考えた時、論理的に物を考えると言う作業が必要になる。
ここで論理を否定する人間の大半は、自分が論理的に物を考えるというしんどくて面倒くさい作業を努力する事を放棄している事を認めたくないだけの、他人に良い評価はされたいくせにしんどい事は嫌というワガママ人間が大半だと思う。
もちろん先天的要素で得意、不得意や他人と相対的に比較した場合の優劣は、あると思いますが、努力をするという平等に与えられた権利を放棄しているだけの人間に過ぎないと考えています。
今の世の中を見ていると、他人と自分を相対的に比較し、その先天的能力を引き合いに出し、自分に都合の良い言い訳で自分自身を納得させている卑怯で妥協した人が多すぎると感じます。
例えば俺自身、客観的に見て他人が作る文章と相対的に比較した時、この文章自体が決して質の高い物だとは思っていないし、論理と言うほどの物でもないと思っています。だけど他人の先天的に持っている能力と自分の能力を比較した結果自分の方が劣っているからと言ってあきらめの言葉を吐いて言い訳しても何の生産性もなく、それ以上の自分にはなれない。
逆に他人ではなく自分自身と向き合い今の自分を超える為の努力をすると必然的に結果はでる事は、歴史の事実が証明しています。
結論から言うと、上を見てもきりが無い、下をみてもきりが無い、とにかく自分の出来る範囲の事を一生懸命やるしかない、と考えています。
少し脱線しましたが話を戻しますと、今言った様に何かを創り上げていく中で論的発想を含め歴史の事実に基づく統計学的発想で物を言うと、真のパイオニアと言われて来た人達は大半がこのバランスに優れていた事も事実です。
例えば、みんなの知っているであろう場合だと、ピカソの作品も見た目は抽象的でいい加減にフィーリングで描いている様に見えると思いますが、実は努力により論的構築もなされた上での物だったりするらしいです。
例を挙げるときりが無いので続けます。ここまで読むとうすうす気づいてきた人もいるかもしれませんが、先に言った「論理なんて無視しろ!!」というのは、ここで言う所の「統計学なんて所詮統計にすぎない!!」というのと同じで、例えばその辺によくいるような、ただのの天邪鬼を個性と履き違えている様な若い子や、質の低い自称アーティストにありがちな発想で、「所詮統計なんて過去のデータでしかない、絶対そんな物自分は信じない」というような人がいますが、もし統計学的発想や確固たる根拠に基づいた事実を認識、理解、または容認しないということは、ある意味すべての情報処理を否定するという事で、情報を否定するという事は、言語も含め生まれてから今までの全ての情報を否定するという事になり、自己の存在を認知している事や、言語を使用している事自体も否定しなくては筋が通りません。 例えば生まれたての赤ちゃんが物事を学習するのに、仮に自分の親の顔を認識、インプットする過程を考えた時に「お父さんですよ〜」とか言ったところでその事自体を理解している訳もなく、顔を視覚情報としてとらえ、その視覚情報に対しては好印象を受けるという感覚を統計的に概念化させているだけのはずです。
「家」を「家」として認識しているのは、教育や環境といった情報の中で無意識であろうがなかろうが統計的に「これがあなたの家ですよ」と幾度も認識させられる作業を繰り返し「家」という概念を理解し、自分が毎日帰ってきて住む場所だと自覚するわけで、そういう統計的情報処理が出来ないなら毎日の様に知らない人の家に帰ってしまいます。
そういう考えに基づいた時、例えばビルか何か数十メートルの高さから飛び降りたとして、本当に統計情報を信じないという信念があるなら地面がコンクリートであろうが、水であろうが同じ様にためらわず飛び降りられるはずです。実際、情報量が大人に比べて少ない小さい子供とかは、たまにそういった事故があるらしい。
要するに意識下においてインプットされた情報と無意識下においてインプットされた情報は、情報としての本質が等価であっても認識の経緯が無意識か否かにより違った物として誤解して認識してしまう。
さらに言えば「統計的には人間は、80歳前後で死ぬものだが、所詮統計だから自分は、150歳まで生きるかも」とか、さらに「いや、もしかしたら、自分は、ずっと死なないのではないか」という様な事を考える情報量の少なさによる無知な幼稚園児と一緒。
早い話、自分の情報収集に対する努力不足や柔軟性の欠如によるキャパシティの狭さを認めたくないだけの放任主義の名のもと甘やかされて育ったわがままなクソガキの発想で典型的資本主義の負の副産物ではないだろうか、そんな奴に限って何の努力もしていないくせに根拠も説得力もない個人的感情レベルで「直感力とか感性」といったその抽象性を隠れ蓑に誤魔化し、努力を怠ろうとする(そんななんの努力もなくして楽チンに凄いもの作れるなんてありえない事も論的に述べられるが、ここで述べても意味もないとおもうし、長くなるので述べません。もし納得しない人が現れまともな討論が出来たとしても理論武装の詭弁合戦になり最終的には価値観の違いと言う事で折り合いつけないと一生平行線で終わらない事も想像ついてしまいますので)、またそういったレベルの低い自称芸術家の取り巻きも、そんな事言われると平均的日本人の長い物には巻かれろ的発想でとりあえず理解しているふりだけしていれば「アートを解からんダサい奴や!!」と後ろ指さされることだけは免れると安心する。
それによって質の低い物が蔓延している事に気づかず、作り手も悦に入ったゴミを作り続ける。
これが今の世の中の本当だから仕方が無い。
今の日本ではそんな質の低い只の平均的な変わり者が作った低レベルの物が、ポップアートやアブストラクトアートの名のもとに評価されていたりするから始末におえない。
では本当の質の高さとは何かと考えると、俺の個人的に考える真のクリエイティビティとは、質、物量、共にバランスの取れた情報収集をし、その収集に対する努力量に比例した情報収集量(意識下、無意識下、関係なく、日常生活の経験等も含め)の多さの中から、客観的視野を持ち論的整合性を含めた上(本人が自己認知出来る、出来ない、は別問題として)、優先順位の高い物を取捨選択して、感性、直観力を研ぎ澄ましそれら全てを含めた上で極限までの努力をぶつけ創り上げた物だと思っています。
本当に直観力や感性、感受性という事を言うのなら、今の資本主義の生み出す負の副産物に論理や情報でなく、感性、感受性で違和感や疑問を感じるはず。さらに違和感どころか金銭的利害しか考えていない資本家の出資のもと、「デザイナー」とか「アーティスト」とか今では安売りされてしまって定義すらあやふやになってしまった言葉のもと、いいようにおだてられ利用されている事にすら気づいていないということは、繊細さのかけらも無い感受性の鈍い鈍感な奴の創り上げる抽象性で誤魔化しがきいてるつもりの物でしかなく、所詮それ風でしかない。
飽食社会の産物である大量生産された商品という定義の上なら評価はできるが、芸術作品なんて呼べる程の物であるわけも無く、どうしても作品と定義付けしたいなら勝手だが、俺の中では間違いなくその瞬間ゴミ以下と化してしまうと思う。
そんな事もわからず、自分の事をアーティストだなんて恥ずかしげも無く言ってる奴の事は本当に意味不明だとおもうし、本当に理念を持ち、努力し続けている人に対して失礼だと思う。
そんな、人に対してのリスペクトも知らない奴がつくりる物を法外な値段で買わされている若い子が本当にかわいそうだと思う。
とだんだん腹が立ってきたし、きりが無いのでこの辺で終わりにしますが、結論をいうと上記に述べた独自の理念のもと、質の高さの基本的要素の一つに「科学・論理等と感性・直観力等」のバランスという事は必要不可欠である。
後、念のために述べておきますが、質の低い手抜き作品=抽象表現だということではなく、むしろ抽象表現でしか表現しきれない可能性も常に模索していますので誤解の無いよう要注意!!
これらはあくまでもWHATEVERの目指す主観的理想であり、挑戦し続けていますが、必ずしも全てが結果として物創りに反映され表現されている訳ではない場合もあります。
また場合によっては自己認知できる論理性等がなくても、生みの苦しみとの葛藤は存在しますし、その中でも質の高い物も存在します。 明確なコンセプトや信念、理念、持論は存在するが論的に表現するのが苦手で技術がない事と、ただ単にその抽象性を隠れ蓑にコンセプトや信念、理念、持論など何も無く、手を抜き誤魔化しているだけとは異質の物、そんな奴らに一石投じる為の論理攻撃でしかないので、論理等無くともそこに情熱と信念を持ち真の創造に挑戦し続ける行為がある限りは、これらの論法の枠には収まる物では無いと思いますし、実際、俺の回りにはそんな友達がたくさんいます。
それらのバランスを含めた発想を持ちWHATEVERでは常に物創りに取り組んでいます。

中村泰一郎