世の中で服と言う物は「衣・食・住」の三大要素の1つとして社会生活の中で重要な役割を果たしている。
だが一口に服といっても場所・環境・生活様式などの違いで捉え方は多種多様で、その着こなし方等でその民族や個人の文化水準や個性を現す物となり、そういう意味では先進国と言われる日本におけるこれからの服の持つ意味は、次世代のコミュニケーションツールとしての更なる有用性が問われる部分もある。

と、まるで服飾史の教科書の冒頭の様な固い文章になりそうなのでもう少し柔らかく説明します。
本来服というのは、おそらく原始時代くらいに保温や身を守る物として、動物の皮など(一般的に原始人が身に着けているイメージのやつ)を使う所から始まり、さらに生活の知恵の蓄積により文化性が増すとともに天然繊維など(漫画日本の歴史等でいう縄文時代過ぎる前後くらいのイメージのやつ)の利便性の良い物に発展し、さらに文化的発展やゆとりが出てくると装飾にも気を使う様になり染色や織物の技術(ここでしっかり考えて欲しいのは、みんなが当たり前に考え本当の価値すら薄らいでいる様になってしまった染色技術その他の様々な工業技術が無ければ、今もみんなが着ている服には色がついていなかったり、デザインも同じ様な物ばかりになる、そんな色の無い服を着ている人で埋め尽くされた原宿やアメリカ村等の若者の町を上空から見下げた事を想像し、様々な先駆者が作り上げてきた物事に対する敬意を忘れてはいけないと思う)なども進みカラフルで装飾的な物(十二単やその後の着物など)へと発展して行った。
さらに昭和に入り化学繊維なども発達し、機能的にも見た目にも様々な進化を遂げ現在にいたるのだが、ふと冷静に世間の波というものを客観視して見た時、一見全てが進歩し続けている様な錯覚に陥りそうになるが、実は大半が虚飾にまみれうわべばかりで、本当の質の高さを意識した時に無視できないはずの精神性をも含めたバランスのとれた真の発展を考えた時、現在のデザイン技術や化学的繊維技術はある意味飽和点に来ているといっても過言ではないのではないだろうか?
結論を先に述べてしまうと、デザインの持つ本質とは結局は情報伝達媒体だとした時に、その有用性を含め考えると現在の日本においては、真の発展やクリエーションとは程遠いどころか、まさにその正反対で虚飾を飾る為の道具と成り下がってしまっている場合が凄く多いのではないだろうか。
どういうことかというと、俺らは今までの数百年以上の衣類の歴史の際頂点に生き、物質的には過剰供給される域に達しているに関わらず、服を着る側の人間は、頭の中身が原始時代となんら変わらず進歩無く、一部のクリエーターが創った物を意味も分からず金に物を言わせた挙句、服を着るのではなく着せられて喜んでいるだけ。
また昔は、創り手に対する最低限度の敬意があったであろう事が容易に想像つくが、現在では作り手の自称デザイナーが物質的尺度でしか物事を測れない場合が多い(早い話「デザイナー」と言う訳の分からん横文字使って誤魔化しているだけで、実質は上司や世間に媚びるしか出来ない雇われサラリーマンで、真の意味のクリエーターとは異質の物(注:サラリーマンを否定しているのではなく媚びたサラリーマンを否定しているので誤解の無い様に))ので消費者に媚びてしか成り立たなくなっていて誤魔化しの技術は進歩しているが本質的な物事の質は低下している。
まさに頭の中身は原始時代より発展するどころか、逆に衰退しつつ世の中は回っているのでは無いだろうか?
それらの意味が、いまいち分からない人のためにさらに説明していきます。
まずは現代社会における若者の服に対しての接し方を分析するとある程度の優劣(ランクやレベルの事で、以降は高さとも例える)や系統(必ずしも優劣ではなく以降場合により、横幅や価値観の違いに例える)に大別できる。
あくまでもWHATEVERの考える服の持つ意味を基準にした時、一般的にまず大きくは、防寒等の実用性や、社会性・風習等に沿う事などが優先順位の「ファッションに興味の無い層」と、視覚要素や文化性、または第三者からの反応が優先順位の俗に「ファッションに意識をおいているといわれる層」、との二つに分ける事ができる(ここで指すファッションとは直訳上の"流行"ではなく、一般的に言われるトータル的な"ファッション"とする)。
さらに細分化しだすと、「ファッション」といわれる物に興味を持たない層の人の中でも、幅広いキャパシティの価値観を持った上で、個人の本当の個性として主観的に「ファッション」といわれる観点での服に価値を見出していない人と、単に努力の不足で文化水準が低く、価値観のキャパが狭い為、未だ原始時代の発想から進歩し切れずに実用性のみで十分と決め付けている人にも分かれ、これらは偽善的によく言われる主観性の違いでは無く、優劣(横幅ではなく、高さの相違、ランクやレベルの事、)として差別では無く、事実として区別する事が出来る。
さらに同じ様に「ファッション」に興味があると括られている人達の中でも勿論、優劣(何度も言うように横幅であらわす事のできる価値観の相違ではなく、本人の努力量に比例する高さ(レベル)の違い)や、横幅(あくまでも主観性による価値観の違い)で区分けする事が出来る。
そのうちWHATEVERとして重きを置いている「ファッションに何らかの興味を持つという人達」をさらに分析する。
まず第三者の反応や、第三者からの情報を基準に置いた物質的尺度で相対的に二元論でしか物事を測れない文化レベルの低い底辺層。
その中で主な系統として、無意味なブランド崇拝(これまた誤解して欲しくないのは、本当に価値や意味があるからこそ必然的に価格が高くなっているブランドもあれば、逆にネームバリューだけで内容の伴っていないブランドもある、そういう事からも、価格が高級である事が虚飾だとは限らない)やメディア(ファッション雑誌やテレビ、服飾評論家等)の評価を鵜呑みにする事しかできない層の人達がいる。
どういう事かと言うと、自分自身で物事をしっかり考えるという努力を伴う作業により、物事の本質を知るという誰にとっても平等にしんどくて面倒くさい事を放棄し、お金と引き換えに安易に情報を得、その情報を疑うことなく、"お金"という物質的性質を持ったもので、"本当の格好良さ"という非物質的性質の物を買う事が出来ると思い込んでいる、これまた文化水準の低い層。
言い方を変えると簡単な足し算、引き算といった算数の本質すら理解出来ず、「プリン+スペースシャトル=モーツアルト」の様な意味不明な公式が成り立つと思い込んでいるのと全く同じ。
まさに向上心という人間特有の権利を放棄し、生きているのではなく、犬や猫の様に動物レベルで流されるままに、生かされているのではなかろうかと思われる人達。
さらに言うと、努力で感受性などを高める事により、自身で目利きできるようになる作業を、お金という物質で肩代わり出来ると思い込んでいる人の事(価値観の幅も高さも狭い文化水準の低い層)、いわゆる「流行っている」とかいう言葉を多用しがちな流行に乗せられてしまっている人。
一般的に資本主義の階層構造で表される様な三角形(△)の図にすると発想力が平均的な最下層の多数層の人達。
とまたもやヒートアップしそうなので話を戻します。
次にそれら多数層の根本的発想を嫌い、それらを拒絶したり、もしくはアンチテーゼを掲げ、事実としての優劣ではワンランク上にいるが、相対的な二元論での比較しか出来ていない、服やファッションの意味を理解するまでに至らない「変わっている(無意味な独特さ)」「派手」「少数派」で自己完結してしまっていて、若い人達の間では「おしゃれ」と勘違いされている層、
次に優劣としては、それらと重複しつつも努力を伴いランクアップしたであろう、底辺層の流行や虚飾、また単なるアンチテーゼのレベルには目もくれず流される事の無い、一人の人間として単に価値観として服の見た目や雰囲気などが自身の感性の中で純粋に好きだという人の層(一般的に言われる本当の「おしゃれ」と言われる様な純粋に服の好きな人)。
さらに成長を遂げその純粋に好きだという感性を大切にしつつもそこに留まらず、さらに論理や客観性等の更なる要素も加える努力を惜しまずに、その服自体を服単体として捉えるのではなくバックボーンや自己のアイデンティティも含めて視野に入れた発想で総合的に服に取り組む人の層(アイデンティティと服がリンクしているであろう、「おしゃれ」のワンランク上の本当の意味の個性的だと言われる人の層)、といった具合に経験地と努力に比例して優劣や幅を分析する事が出来ます。
勿論さらに細分化、分析できますが、意味が無いのでこの辺にします。
それらの事実を含め、物質と精神のバランスこそが本当の意味の最先端だと考えるWHATEVERでは、服に対して各個人が明確な意思と意図(論理的に自己認知しているかどうかはどうでも良い)を持って服を着る事により、各個人の個性、アイデンティティといったものが言語等の媒体を使わずして第三者に伝わる着こなしこそが次世代の本当の最先端でガンダムで言うところのニュータイプ、ある意味超能力の様な物では無いだろうか。
またそれらの最先端の服の着こなし方も含めて消費者に伝える物創りこそ作り手としての責任も含めた本当の意味でのクリエーションであり質の高さではないだろうか?
すでに意味が分かりにくい人もいると思うのでさらに簡単に説明する為に少し脱線しますが俺の若い時の事を話します。
そもそも俺は、中学生の時はファッションには全く興味が無く、というか逆に嫌いなくらいで、何故かというと当時は「服や髪型なんて人の外見でしか無く大事なのは内面や本質、そんな上っ面にすぎない服や髪型にこだわる奴は人に流されているだけの頭の悪い奴や!!」と考え決め付けていました。(というか当時は理屈ではなく単純に感じていました)
なのでスケートボード始めた頃も近所のスーパーで買ったスウェット上下で「スケボーするには動きやすくていい、別にスケーターブランドの服なんか着んでもスケボーできるやないか、みんな人に流されてるだけ!!」と考えていて、我が道を行ってました。
ですがやはり若気のいたりで、迷いも生じ少しはみんなと同じ物が欲しいと感じる時もあり、たまにはスケートブランドの物も買ったりもしていました。
が、今考えるとそんな若い子が迷いを生じるような世間のあり方や、ブランド側の無責任さや、たちの悪い情報操作こそが人の精神や気持ちにつけこんだ最悪のやり方だと思う。
と長くなりそうなので、それはさておきその後、十八歳頃ティッシュ配りのバイトをはじめました。
そこで俺にとって運命的な出会いがありそれが「シガさん」(ちなみに現在はWHATEVERのデザインも手伝ってもらっています)という人で、見た目は分かりやすく言うと俗に「クラスト」と言われている様な服装をしていました。
どんな服装かというと、ここ数年で一般的に街でも見かける様なつぎはぎだらけのボロボロの一見浮浪者の様にも見えるパンクファッションのスタイルの1つです。
当時は東京や大阪等の都市部でもたまにしか見かけないアンダーグラウンドなスタイルだったのですが、昨今ではそのビジュアル的インパクトや情報媒体の発展からそのファッションの持つ意味とは関係無く流行で着ている人も増えたので日本全国で見かける事も多いかと思います。
さてそのシガさんですが、最初の頃は特に話をしたりしたわけでもないに関わらず、何かを俺は感じていて凄く興味があり、自分の方から色々な事を聞いたりしました。
そこで分かった事は、シガさんの価値観は俺と近いベクトルにある人だという事を知りました。
そこで俺は気づいたのです、「ファッション」というのは、単に流行りに流されている人間にとっては、まさにその人の個性や本質を映し出し主体性や物を考える力の乏しい、個性の無い人が選択せざる得ない多数派のファッションだという事が見て取れるし、次に回りに流されず純粋で短的に服が好きだという人は、一般的に言われる「おしゃれ」のレベルではあるが、やはりそれまでのレベルでしか無くそれ以上の発想力には乏しい人だと言う事も見て取れる、さらに主体性や個性また客観性等を明確に持っている人が意図として着こなす服というのは、服が服以上の価値を持ち、同じくそれらを外見に反映させる事の出来る可能性を秘めたツール(道具)だという事を。
その時点から俺は、若い時から信条にしていた「服や髪型なんて人の外見でしか無く大事なのは内面や本質、そんな上っ面にすぎない服や髪型にこだわる奴は人に流されているだけの頭の悪い奴や!!」という考えが所詮中学生の考える視野の狭い世界だった事に気づき外見や服装というのは、それらの本質を理解し表現している人にとっては、言葉を交わさずして自身のアイデンティティを第三者にすれ違っただけで伝える事の出来る合理的でまさに次世代のコミュニケーションツールになりえる物だと気づきました。
まだ難しいかもしれないので具体例を出すと、例えばポケモンのイラストが描かれたTシャツがあるとしてそれを子供が着ているのなら、単にポケモンが好きなのか親が勝手に買ってきたのかだろうと推測が成り立つ、だが全く同じポケモンのTシャツでも例えば秋葉原でファッションに興味の無さそうな人が着ていれば、本当にそういったアニメ等が好きな系統の人で純粋に好きなんだろうなという事がおよそ推測できるし、逆に同じTシャツに同じ年齢でも原宿辺りで派手な髪型やファッションに身を包んだ人が着ていたら、へんてこな事や派手な事と、本当の個性の意味の違いを理解していない、なんでもかんでもごちゃ混ぜにした勘違い君だという事もおよそ推論できるし、さらにそういう奴に突っ込みいれても論理と呼ぶに値しない訳の分からん持論を展開し、「僕は〜本気で〜「サトシ」の〜声優を目指してて〜、心底ポケモンが好きだから〜どうの〜こうの〜」と言い訳する所まで含めて頭の中まである程度推測され読まれてしまう。
まさにこれらの発想を理解している人にとっては、服とは言葉をかわさずして、個性や価値観等の内面をさらけ出すツールと化してしまう。
幼稚園児のレベルだと、みんなが赤って言うと青って言ったり、わざと靴の右左を入れ替えて履く事が個性だと勘違いするのと、高校生くらいになって「みんなが耳にピアスしてるから、じゃあ自分はみんなが開けていない鼻や口、さらにはそれ以外の違う所に開けてるから個性的だ」と勘違いしたり、「みんながやっていない髪型にしているから個性的だ」とか、逆に「みんなが派手やからあえて普通の格好している方が本当の個性だ」とか、人それぞれ持論はあるだろうが基本的な発想力は幼稚園児の時からなんら進歩していない。
どういう事かというと対外的な物事と相対比較する二元論でしか物事を捉えていないという根本的発想自体が本質的に幼稚園児の頃から二十年近く頭の中が進歩していないのだから、このままそこの本質に気づかないと多分死ぬまで気づかないだろうという事も推測できる。
まさにブルーハーブの言葉を借りると「明るい、暗いしか言えない物書き」の発想になってしまっていてそんな平均的発想の人間が外見を変えようが虚飾に過ぎない。
勿論何百年か昔は、着飾る事自体が文化的で当時の最先端の服の持つ意味だったのだろうが、俺に言わすと「おい、おい、今2006年やで、同じ国に住んでんのに何でそんな事もわからんねん!!」と感じざる得ない、早い話、物質文化ばかりが先走ってしまっていて、精神の発展が伴っていない。
さらに例を出すと、常に同じ色味のものしか着ない人や、何年も同じ服を着続けている人は、そこになんらかのこだわりを維持し続けている人である事が推論されると同時に、同じものに固執し続け新しいものを許容できない性分である可能性も推測できる。
また逆に常にファッションが変わる人は、柔軟性がある代わりに逆にこだわりに欠けた人の可能性も推測される。
また派手な事と個性的な事との違いを勘違いしていた事に気づいたが、その先本当の表現の意味も方法も分からず格好悪いので「simple is the best」という言葉で誤魔化している「simple is the best」の本質と「個性が無い」事の違いすら理解できず大人になったつもりの全く個性の無いアパレルやアートに携わり馬鹿な後輩には「おしゃれ〜!!」と勘違いされている自称「アパレル系」や自称「アーティスト」もたくさんいる。
似たところでは、若い時には服に興味を持っている風だったが、ある程度の年齢になり落ち着いたと言うには説得力の無い単に個性の無いファッションをしている奴も、およそここに論じられている事のさわりにすら触れる事の無い、低いレベルで自己完結し、町で流行りのファッションしている子を見ては「若いな~」と、何か悟った気になっている馬鹿である可能性も推測される。
まさに真の創造という努力の伴う大変でしんどい事には向き合わず、自己完結する事で何か悟った気になって逃げている自分自身でリミッターを付けてしまった典型的パターンである。
こんな平均的発想力しか持ちえていない奴が案外「クリエーター」として若い子に評価され「シンプルでも超雰囲気がでてる〜!!」とか意味不明の宇宙語を駆使するがごとく文化水準を下げ、真の「抽象芸術」と、自己中心的で質の低いゴミ同然の自称「抽象芸術」との境い目をややこしくさせている、とまたもやヒートアップしてしまいそうなので話しを戻します。
これらもまた物事の本質を考えた時、二元論的な発想になってしまっている人のファッションの在りかたである可能性が非常に高い。
さらに例えると、身分不相応な年齢や状況で高級ブランドを身に着けている人は単純に中身が薄い可能性は極めて高いだろうし、逆に高級ブランドの物を身に着けていて高級車を乗り回しているが、よく見ると何年も同じ財布を愛着を持って使い込んでいる人だと、ただの成金ではなく物を大切にする事も知った精神とのバランスもとれた真の成功者である事も可能性として推論できる。
勿論これらの発想を理解しているに関わらず単に主観的に服という媒体での表現に興味が無いという人もいれば、先ほど述べたように「服なんて無意味」と信念めいた狭い発想力で決め付けたまま、悪い意味で大人に成り下がってしまい、我が道を通しているだけのレベルの低い自分自身で自分の可能性にリミットを引いてしまった人もたくさん世の中には存在している。
例を挙げるときりが無いのでこの辺にしますが、WHATEVERでは単純に需要を意図的に情報操作で吊り上げているだけの嘘っぱちで名ばかりの最先端といわれる実は本質的には時代遅れな物ではなく、以前も言った様に本当の最先端を理解できるのは常にマイノリティになってしまうというパラドクスをも打破すべく気持ちで、妥協なくとも需要層を増やすべく最先端の服に対する発想を伝えていこうと考えています。
そういう事からも折角この文章を読んでくれた人だけでも、無理に背伸びしたり、派手な格好をするのが本当の「おしゃれ」や「格好良さ」では無い事に気づき、本当の自分をしっかり見つめ直し、その上で本当に派手な物が好きならそれを選べばいいし、シンプルな物が好きならそれを選べばいいと思う。
若い時は情報や経験地が少ない為、純粋にその時の感性でカッコイイと感じ、人の真似やコスプレになってしまいがちだが、俺は全然それでもいいと思う、単に純粋だというアイデンティティの表れだと思うし、逆になんでもかんでも人と同じは嫌という発想をもとに奇抜で目立っただけの格好も、個性を発揮したいという熱意こそ拾えるものの、結局は背伸びしているだけで中身が無い事を自ら他人にアピールしてしまい見透かされて格好悪いだけ、実際、今の原宿やアメリカ村で遊んでいる若い人達は、そんな人が凄く多いと感じざる得ない。
大事なのは、その先にそれらの経験を踏まえ人真似や、意味無く目立つだけで終わらず、いかに本当の意味の自分のオリジナリティを発揮できるかが大事だと思う。
一言で結論を言い切ってしまうと、若い時は「マイノリティ(少数派)」=「オリジナリティ(個性)」だと勘違いしている人が非常に多いという事。
少し考えれば分かるが、「マイノリティ」である事と「オリジナリティ」は、根本的にベクトルが違う為、こんなずれた発想でいくら突き進んでも本当の個性の表現になるわけもない。
これは服に限らず「音楽」、「SK8」、「芸術」等など、ジャンル問わず同じだが、無意味で根拠の無いアングラ崇拝と同じで、アンダーグラウンドである事自体には本来何の意味も無く、本質的な事を言うと、「真のオリジナルで最先端を創ったり理解できるのは常に少数派なので、たまたまアンダーグラウンドである」事と、「質が高かろうが低かろうが、一般層に受け入れられにくいというだけで一括りにしている少数派の支持しか得られないマイノリティ」との違いを理解できず同じアンダーグラウンドという一言で括ってしまう行為と同じ。
人間には五感があるに関わらず、論理情報や視覚にしか頼れず見た目だけのデザイン性や物質的尺度でしか物事を捉えられない感受性の乏しい浅はかな発想に基づいたファッションなんて、見る人が見れば全部見透かしているのだから、本当の自分を見出す努力をし、そんな自分に合った格好をするのが一番いいと思うし、本当の格好良さとはそこにあるとWHATEVERでは考え、それらの理念のもとに物創りに取り組んでいます。
みんなはあまり知らないかもしれませんが、最近のパソコンのデザインに使うソフトはかなり便利になっていて、原宿やアメリカ村の服屋で売っているようなデザインの中には、ちょっと使い方さえ覚えれば、たいした努力もなしに素人でも見た目だけが格好よさそうな数分で作れたりする物も数多くあります。
そんな物のどこに価値を見出していいのかWHATEVERとしては理解に苦しみます。
なので何度も言っていますが、WHATEVERのアイテムは、見た目だけを重視したデザインとは根本的に一線を画している為、見た目だけの派手さや格好良さを意図的に押さえている物もある為、物質的尺度でしか物事を判断できない人が大半を占めている今の日本では、はっきり言って全然売れにくい事も分かった上でリスクを背負いながらがんばっています。
ですが少数派であれ理解してくれている人は存在するし、もしくは現時点では理解出来ていなくても、それこそ論理や視覚だけに頼るのではなく、本当の意味の鋭い感性で何かを感じてくれている人もいるという事実がWHATEVERの原動力ともなっているので、共感してくれている人は、これからも努力を惜しまず日々社会常識や固定観念を疑う意味を忘れず、また逆に全てを否定だけするのでもなく、バランスを保ちつつがんばってください。
またさらに理想を言うなら、あえて共感してもらっているからこそ厳しい事を言いますが、心の中で共感するのは誰にでも簡単に出来る、どんな些細な事でも実質行動に移すのとは、根本的に次元が違う、という事です。
例えば、サブカル本や哲学書、高尚な文学などを読み漁り膨大な情報量を詰め込み、自分が何か分かったつもりになっている実質行動ゼロ%の馬鹿の意見なんて聞くに値しない。
お便りをくれる人の中には、「書いている事は難しくてあまり理解していないけど、感覚的に共感できるので、なるべく友達にWHATEVERの存在自体を広められる様に紹介している。」と、まさに自分の中で出来る精一杯の実質行動でWHATEVERに影ながら協力してくれている人もいます。
そういう事なので、これらの文章を理解しようと自分なりに努力した上で難しかったら、今は無理に理解する必要も無いと思うし、大事なのは理屈ではなく実質行動だという事を忘れず、自分と他人は違う個性なのだから自分の出来る範囲からでいいから行動する事が大事だと思います。
基本的にこれらの「TEXT」に共感してくれる人達は、「学校でも回りに気の合う友達が少ない」、「少し変な奴だと思われている」、「みんなに嫌われている(笑)」、といった少数派の人である可能性も高いのでは?と俺は感じていますが、そんなの気にせず当たり前だと思って自信を持ってくれて良いと思います。
だって、何度も言うように最先端の発想というのは、常識や固定観念に縛られた多数派の人に理解できないというのは、歴史の事実からも統計的に立証されている事で、この先の未来もある意味普遍の本質で歴史は繰り返すものです。
以前も例に出したようにガリレオの「地動説」もしかり、他に例えれば「文明開化」の時に、それまで「ちょんまげ」が常識だった中、最初に「ちょんまげ」を切り落とした人も、奇人・変人・異端児扱いされていた事は想像がつくし、逆に根拠の無い保守的な事に固執していた「ちょんまげ」でいつづけた人達は、現在で言う所のまさにこの「TEXT」に書いている真実である事実を理解できない人と同じ。
そういう事からも「嫌われ者で上等!!」くらいの気持ちで、本当の真実を理解出来ない人の事は、いまだに「ちょんまげ」でいつづけている奴と本質的には「同類項」だから「相手にしていては時間の無駄!!」、くらいに考え自信をもって行動してください。
何十年先か何百年先かは分かりませんが、俺の述べている事実が「当たり前の常識」と認知される時が来る、という事も歴史の本質を考えた時、事実なのですから。

話がそれてしまい、なんのこっちゃ分からん結論ぽいですが、それもありだと思うのでそんな感じでみんなもがんばってください。
これからも応援宜しく!!

中村泰一郎